読みやすい文章を作るのが仕事ですが、個人的には読みにくい文章が好きです。
私の読書遍歴は江戸川乱歩の少年探偵団や横溝正史の金田一耕助シリーズがルーツ。小学3年生頃に読み始めたので、かなり背伸びしていたのだと思います。
背伸びしてでも読み続けられたのは、「大人っぽい本」を読むために知らない形容詞や表現、難読漢字を紐解いてゆく作業に恍惚としていたから。
辞書を開いて熟語の意味を調べる行為は神聖な儀式で、作品に没入する「教養」という資格を得るためと心得ていました。
読みにくい文章を解読する喜びとは、実は非常に甘美なものなのです。
私は順調に谷崎・芥川・川端・漱石・三島といった純文学好きへとシフトしていきました。
やがて、村上龍が『限りなく透明な青いブルー』で芥川賞を受賞。これがサブカル+純文学的なブームへの勢いになったように記憶しています。
サブカルの一環としての純文学ブームが実際に到来したのは、80年代後半から90年代でしょうか。私にとっては暗黒の時代です。
小説家の小説ではなく、小説を語る小説家の言動が脚光を浴びる。
哲学者の哲学ではなく、哲学を語る哲学者の言動が脚光を浴びる。
社会人類学者の論文より、社会人類学者がブルセラを語るのが重要、みたいな。
彼らの文章には難解で思わせぶりなワードがバランスよく散りばめられていましたが、やっと解読してもキラキラ輝く宝物はありませんでした。
これを機に、私はしばらく純文学を読まなくなり、代わりに海外の作家やノンフィクションを読むようになります。
再び日本の小説を読むようになったきっかけは、いわゆる「ラノベ」と呼ばれるジャンルが新鮮だったからです。素直でエンタメ精神に溢れたラノベ小説の文章は、一度大嫌いになった日本の文壇への拒否感を和らげてくれました。
願わくば、ラノベ作家の皆さんはもっと「読みにくいけれど解読すれば宝物が見つかる」ような作品を書いてほしいと思います。
でもそれじゃ売れないから仕方ないのかもしれないし……うーん、悩ましいですね。